グレーゾーンやボーダーという概念

写真は地平線を走る猿払にあるエサヌカ線。湯治中のドライブで行ってきました。

鬱蒼とした道を抜けた先にある・・・・

モケウニ沼。北海道は至る所に絶景が。

ちなみに、6月に来た時も今回もちゃんと抗体検査はしてきております。何よりも今までたくさんお世話になった豊富の人に迷惑をかけたくないので、そこはきちんと。やはり、地方は病床が少ないのでローカルの人たちはコロナに敏感になっています。

さて、今日ちょっと長いです。しかも、ナチュロパシーの話ではなく、言葉の概念のお話。

以前から大人のASD、ADHD、アスペルガーなどの症状を持つクライアントさんはいらっしゃったのですが、最近は子供のクライアントさんが増えています。

お子さんでは、ASD(自閉症スペクトラム)、ADHD・ADD(注意欠如・多動性障害)、OCD(強迫性障害)、トゥレット症候群やチック症が多いでしょうか。大人も子供もマイルドなケースが多く、所謂発達障害の「グレーゾーン」と言われているケースが多いです。

ナチュロパシーなどの補完代替療法がある国では自閉症、ADHD・ADDなどでも、自然療法や栄養療法を治療の一環に取り入れることが多いです。これらの疾患や症状において、食・腸の刺激が脳の刺激に直結し、また、以前書いた通りちょうど診断が下される子供の時期の脳の成長や栄養の影響もあるため。食・腸の刺激が脳の刺激である点は、統合失調症、両極性障害、うつなどの精神疾患でも同様です。

大人になってからでもサプリの摂取や食のコントロールが症状のコントロールにつながります。脳や神経だけでなく、あらゆるすべての慢性疾患に関して食の影響は必ずあります。

結論からいうと、大人にしても子供にしてもナチュロパシーのトリートメントに関しては良い結果が出ることが多いのですが、今日はその話ではなく、「グレーゾーン」や「ボーダー」と言う言葉の概念についての話。

今、大人のASDやADHDがとても多いと感じます。ASDやADHDは優秀な方も多いです。また、それ以上に感じるのが、発達障害の白黒がはっきりつかないマイルドな症状の場合の「グレーゾーン」、または同様に知的障害のグレーゾーンに当たる「ボーダー」のお子さんの多さ。特に学習障害については、全く特別なことではなくなってきているような感じがします。

ただ、「グレーゾーン」や「ボーダー」と言う言葉を耳にするたびに何か説明のつかない抵抗を感じます。

成長の途中の一過性の事もあれば、その人の「特性」の1つとなることもあり。とはいえ、「特性」や「個性」と言い切るには社会に違和感を感じるご本人や心配するご家族に対して無責任な感じもするし、でも、一般的な「病気」とも違う。むしろ診断が下った方が本人が生きやすく、家族が対応しやすくなることもある。

人は皆「病気」と聞くと、「正常な状態に相対するもので、治るもの」と言うイメージがあると思いますが、アトピーや自己免疫疾患や様々な慢性病は治ると言うよりは症状をコントロールしながら一生付き合うものです。がんが完治しても、元の生活習慣に戻ればもちろんまた再発します。学習障害も同じことで、生き方を学び症状をコントロールしながら一生付き合うもの。

「正常な状態でないもの」ではなく、生き方を学べば良いのです。

精神疾患にしろ、学習障害にしろ、大人のクライアントさんの生活からこの社会で生きていく生きづらさを垣間見るわけですが、ストレスにじわじわと体を蝕まれる普通の人の生きづらさや病気で苦しむ姿と何ら差はありません。

そこでまた「グレーゾーン」と言う新しい便利な名前のカテゴリーにカテゴライズされいく子供たち。

病気のある人と、病気のない人という意味での健常者との間に優越の差はないし、疾患の種類で何か優越の差があるわけでもありません。「カテゴライズ」という作業は何となく、特にこの「空気を読む文化」の日本において線引き感を感じ、「グレーゾーン」や「ボーダー」という言葉を聞いた時に、どういう使われ方をしているのか少し不安感を覚えてしまうのです。

オーストラリアではどうだったかと振り返ると、短い滞在期間の中ではグレーゾーンと言う言葉は聞いた覚えがありません。ADHDやアスペルガーなどあれば、「この子はマイルドなADHDだ」「彼はアスペルガーだ」で終了、でした。海外では自分と人が違って当たり前の世界ですが、右習え右をしないといけない日本ならではの表現なのかしら。

そうして、何かを突き詰めるわけでもなくなんとなくその言葉に違和感を感じながら、ADHDやOCDなどのクライアントさんたちのコンサルを日々やってきていたのですが、ヨーロッパのアート界の状況に詳しい友人から先日アウトサイダーアートの話を聞いた時になんとなく引っかかっていた違和感の端っこに何かがぶら下がるのを感じました。

アウトサイダーアートとは、芸術・美術を学んだ経験がなく既存のアート界に所属していないアーティスト。要するに完全に誰の影響も受けていないアートを生み出す人。発端は統合失調症などの精神疾患を持つ人が創り出すアート。アウトサイダーアートの歴史で有名なところは、統合失調症のアドルフ・ヴェルフェリ、おそらくアスペルガーでトゥレット症候群のあったヘンリー・ダーガーなど。著作権の問題などあると思うので画像は載せませんが、興味のある人は検索してみてください。日本でわかりやすいのはマイルドな知的障害のあった山下清さん。山下清さんの「長岡の花火」もぜひ見てね。久々に見てノスタルジックに包まれました。

日本においてはアウトサイダーアートはそのまま障害者アートとしてのみ認識されているようですが、ヨーロッパでは障害者アートに止まらずもっと広義に受け止められていて発展しているようです。アウトサイダーアートの元の言葉はフランス語のアール・ブリュット、生(き)の芸術。

計算されていない、何の影響も受けていない、一人の個人から生み出された生の感情・衝動が表出されたもの。その枠が時代とともにどんどん広義に理解され、今では障害者アートだけでなく、美術を学んだわけでもない、また美術を生業にしない普通の人々がその人の日常から生み出す芸術も指すそう。例えば、郵便局員が創り出した「シュヴァルの理想宮」。一介の郵便局員が33年毎日石を運んで作り上げた建築物。要するに、美術を学んだことのない田舎のおじさんがコツコツと自分の庭に人形の置物などを作っていってある種の世界観を作り上げたらそれはアウトサイダーアートなわけです。

たくさんのアーティストがいるのですが、ヨーロッパでは特にアウトサイダーアートやその美術館が充実しているそう。

その人の生活、感情、思考、人生が見えるアート。

障害者アートはよく話題に持ち上げられるところですが、生の芸術の広義な枠組みでその概念が広がっていて、新しい概念を生み出し社会に存在しているところにとても救いを感じました。「グレーゾーン」や「ボーダー」と同じようにカテゴライズを示唆する名前付けでありながら、むしろ自由と広がりを感じる、人の文化の真髄である芸術の世界の概念。生の芸術に人間の美を見出すこと。

統合失調症の人の世界と隣のおじさんの世界と世界的芸術、それぞれに美を見出すこと。

既存の社会を違うアングルから見たときの社会としての成長の姿のような感じがして、すごくホッとしました。不均衡に揺れていた不安な感覚に重石がついた感じです。

生の芸術ならぬ、生の人間性をさらけ出してしまっているが故に苦しんむ人々。私たちは鎧をかぶってこの社会で生きています。鎧を完全に脱いで生の人間性をさらけ出したまま、社会で人とコミュニケーションができる強さがあるでしょうか?

鎧をかぶれない人がいること、それがどういうことなのかを周りが学び、受け止めてあげれば良いだけなのではないかなと思います。社会が成長した時に「グレーゾーン」や「ボーダー」と言う言葉はなくなるような気がします。

アウトサイダーアートの美術館、ヨーロッパに行く機会があったらぜひ行ってみたいです。日本のアウトサイダーアートの美術館、滋賀県のボーダレス・アートミュージーアムNO-MAもオススメだそうです。また、地方に行く楽しみが増えました。